大人の定義
突然ですがみなさんは大人ってどういう人のことだと思いますか。
あるいは大人と子どもの境目ってどんなものだと思いますか。
僕の「大人の定義」は以下のようなものでした。
・人から何かを望むのではなく、何かを与えることができる人。
・あるいは自分の感情を抑え他人の立場で物事を考えられる人。
しかし少し前にあったニュースとその反応を見てまた違う定義に気づきました。
許すべきことと許してはいけないことの分別がつく人
こういう定義もあるのではないでしょうか。
この定義に気づくきっかけとなったニュースとは、「女性エンジニアが少ないとやる気が出ない」で炎上騒ぎに発展したYahooのエンジニアのニュースです。
事件の経緯
①「女性エンジニアが少ないとやる気が出ない」ので声質変換で男性エンジニアの声を女性にしてみる、という講演をYahooのエンジニアが行う。
②講演内容がWeb記事になったところ、「女性エンジニアが少ないとやる気が出ない」という発言に対する批判の声があがり、Twitterやネットニュースで炎上する。当該エンジニアの懲戒解雇を求める声も。
③事態を憂慮したYahooは自社のホームページにて謝罪する。
当初、僕は当該エンジニアおよび講演内容に対し批判的でした。
女性エンジニアは男性エンジニアのやる気をあげるための存在ではないし、公の場で発言すべきではないという考えからでした。
しかし「そこまで騒ぎ立てなくてはいけないことだろうか」「異性がいたらテンションあがることもまた事実である」「講演内容の本旨ではなく、声質変換の技術を発表する導入部分のジョークである」という擁護派の意見を聞くうちに自分の意見は変わっていきました。
そもそも男性のやる気をあげるための道具として女性エンジニアの採用を増やせと言っているわけでもありませんからね。
後から思うと僕が批判した理由は、恋や性に奔放的な人間が嫌いだという僕の独善的な価値観の押し付けだったのでしょう。
自分の考えに溺れ許容すべきところを許容できなかった。自分の未熟さに反省しきりでした。
一方、なんでもかんでも許すべきなのかというと決してそうではありません。
人の権利を一方的に奪う行為、例えば殺人なんて許してはいけないわけですよね。
サラリーマンの立場で考えると、悪徳な経営者が労働者にサービス残業を強いて不当な搾取を行う、これもやはり許してはいけないと思います。
むしろ成り行きに任せ許してしまうことが大人として失格ではないでしょうか。
許すべきところは許し、逆に許してはいけないことには声をあげ行動する。
これが今の僕の「大人の定義」の一つです。
余談ではありますが、僕には許すべきであるはずだが許すことのできない人間がいます。
僕が「大人」になるために、乗り越えなくてはいけない壁です。
現在の僕は、壁を自覚しているにもかかわらず彼らを許すのに強い抵抗を感じ行動にうつせない。大人になりきれない何かなのでしょうね。